「〜会津歴史ウォッチング〜新撰組と会津藩」
新撰組:新選組上洛

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 近藤勇、土方歳三らの新選組が、京都に上ったのは、文久三年の二月のことでした。一行は、その数二百数十人、実に異様な集団で、髪は長く、皆、長い刀を腰に差し、衣服は汚れ、表情はどれも恐ろしげでした。このときはまだ新選組ではなく、浪士隊という名称でした。

 京都守護職、会津藩の配下として京都におき、薩摩や長州の浪士対策に当てようという幕府苦心の戦闘部隊でしたが、出迎えた会津藩公用人の広沢富次郎は「これはいかがなものか」と戸惑いました。
 公用人とは、幕府や公家、各藩との折衝に当たる外交方のことです。案の定、浪士隊のリーダー、庄内藩清河村の郷士清河八郎は京都に着くやいなや、「我々が京都にきたのは、幕府のためではない。尊皇攘夷の先鋒となって、外国と戦うためである」と言い放ち、水戸藩脱藩の芹沢鴨は三百匁の鉄扇を握って、怒鳴りまくり、とんだ厄介者が来たことに会津藩は失望しました。

 しかし幕府に忠節を尽くさんとする近藤勇や土方歳三の一派が、清河八郎から離れて、新しい集団を結成することになり、会津藩をほっとさせました。それが新選組でした。
 会津藩の記録では、その数は二十四人となっています。この段階では、新選組の運営は、芹沢鴨と近藤勇、新見錦の三極体制で行われ、近藤勇の地位は、まだ確立されてはいませんでした。

 芹沢鴨はわがままな男で、乱行が目立ち、新見錦もそうした傾向があったため、ほどなく二人は粛正され、近藤勇のもとに一本下されました。
 会津藩では壬生の八木屋敷を新選組の宿舎にあて、京都の治安維持に当たらせました。新選組を担当した広沢富次郎は、のちに斗南藩の重臣を務め、青森県三沢にわが国初の洋式牧場を開いた人物です。現在の東京大学につながる幕府の学問所、江戸の昌平黌に学び、広い視野に富み、会津藩を代表する人物の一人でした。

 新選組の人々は皆、個性的でした。近藤勇は、酔った姿を人に見せない真面目な男で、無駄口はきかず、人の話を黙って聞いていました。ただし眼光するどく、骨格も逞しく、ただものでないことは、すぐに分かりました。土方歳三は、役者のようないい男で、町を歩くと京都の女性が振りかえるほどでした。しかし性格が意外に地味で、あまり喋りませんでした。近藤勇と土方歳三は江戸の道場で兄弟の契りを交わした仲でした。

 山南敬助は、ひときわ抜きんでた知性派で、漢詩をよく読んでいました。土方歳三とは仲が悪いらしく、「広沢さん、近藤先生の後ろには、悪いキツネがついておりましてねえ」などと土方歳三の陰口を叩いておりました。 土方、山南の二人が近藤の補佐役、副長でした。
 その下の永倉新八は、神道無念流の免許皆伝の腕前で、近藤勇のそばに、ぴったりついていました。

 元気がいいのは、沖田総司です。剣の天才といわれ、たちまち相手を叩きのめし、剣の冴えは天下一品でした。
 新選組がその名を高めたのは、文久四年の池田屋事件でした。この年、将軍徳川家茂が日本の港を外国に開放する問題を朝廷と協議するため、上洛しました。外国に港を開放することは認めないという薩摩、長州の過激派浪士が、京都で騒乱を起こす動きに出ました。

 会津藩は新選組に警戒を命じ、新選組は京都の町に網をはりました。間もなく広沢富次郎のもとに近藤勇から、「長州が動きましたぞ」と連絡がありました。三条小橋の旅館池田屋惣兵衛にうさん臭い浪士がしきりに出入りしているというのでした。

 なおも調べさせると、四条寺町で古物商枡屋喜右衛門という男が、頻繁に出入りしていることが分かりました。色白の中年男でニコニコと愛想がいい。しかし様子が変でした。いつも浪士風の男たちと、部屋にこもり、なにやら相談しているのでした。近藤勇は桝屋の逮捕に踏み切りました。池田屋事件の勃発でした

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