「〜会津歴史ウォッチング〜新撰組と会津藩」
新撰組:池田屋事件

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 天下に新選組の名前を轟かせたのは池田屋事件でした。京都守護職である会津藩の使命は皇室を守り、京都の治安を維持することでした。京都の治安を乱す危険分子は長州藩でした。幕府は諸外国に扉を開く外交政策をとったのですが、長州藩は諸外国を排除する尊王攘夷運動を起こし、幕府と激しく対立していました。

 これは日本を危うくする危険な思想でした。会津藩は薩摩藩と力をあわせ、長州藩を京都から追放しました。文久三年八月の政変です。しかし長州藩は京都に多くの浪士を忍び込ませ、幕府転覆の不穏な動きを見せていました。

 警戒していた新選組が不審な男を捕えました。四条寺町の桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎です。古高は長州藩の過激派と深く交際していたのです。新選組の近藤勇と土方歳三が古高を厳しく取り調べた結果、京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて天皇を拉致せんとする驚くべき陰謀が発覚したのです。新選組担当の広沢富次郎から報告を聞いた会津藩主松平容保は、「まさか」といって絶句しました。背筋が凍る思いでした。

 その陰謀は来る六月二十日前後の風の強い夜を選び、御所の風上に火を放ち、その混乱に乗じて、幕府、会津を支援する公家の中川宮朝彦親王を捕らえ、驚いて参内する松平容保公を襲い、討ち果たし、さらに御所に攻め入り孝明天皇を拉致して、長州へ連れ去るという大胆不敵なものでした。この時、容保公は、病に伏せっていました。 日々、激務が続くため背中や胸に痛みが走り、軽い結核の病状でした。

 「こうしてはおれぬ。余は御所にまいらねばならぬ」容保公は重臣に抱えられて御所に駆け付けました。帝を守ってみせる、容保はその思いでいっぱいでした。新選組の取り調べは苛烈をきわめ、六月五日に長州藩の浪士が池田屋に集まり、具体的な策を協議することを突き止めました。「許せぬ、断固取り締まるべし」 孝明天皇と禁裏守衛総督の一橋慶喜も怒りをあらわにしました。この夜、新選組は池田屋の二階に突入しました。

 長州のほかに肥後や土佐藩の浪士が集まっており、激しい斬り合いになりました。斬り合いは一時間も続き、肥後の宮部鼎蔵が近藤の太刀を顔面に受けて昏倒し、松田重助は沖田総司に赤子のようにあしらわれて斬り倒されました。長州の大物吉田稔麿は外に逃れましたが、重傷を負っていて自害しました。

 何人かは二階から飛び下り、逃れようとしましたが、駆け付けた会津藩と桑名藩の兵士に取り巻かれ、二十三人が逮捕されました。こうして京都の街に騒乱を起こし、天皇を拉致せんとする長州藩過激派の陰謀は阻止されました。容保公はこの夜、医師を新選組の屯所に派遣し、さらに慰労金六百両を贈り、活躍をたたえました。

 孝明天皇も安堵され、新選組に金百両を贈られました。これは異例のことでした。長州藩は会津藩を逆恨みしました。 家老の益田右衛門介、福原越後、国司信濃らが兵を率いて上京して来たのです。その数二千人、一触即発の状勢となりました。

 七月十八日夜、長州勢はついに絡中に向かって進軍を開始しました。容保公は陣羽織を着け、各自、勉励従事せよと手紙を書き、前線の会津兵に送りました。これが世にいう禁門の変です。「負けてはならぬ」近藤勇は新選組の隊士に気合いをいれ、攻め寄せた長州勢を睨みました。

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